――元製薬メーカー営業・Tさんが見つけた、30代からの「つなぐ」生き方
体育大学出身の元ラガーマン。新卒で入った大手製薬メーカーの営業職。その後、ニュージーランドでのワーキングホリデー、中学の教員、ITベンチャーのエンジニアを経て、現在はイギリスでYMS(Youth Mobility Scheme)ビザを手に生活を送るTさん。
一見すると脈絡のないキャリアに見えるかもしれない。しかし、その一つひとつの選択には、彼なりの葛藤と、泥臭いまでの行動力、そして「人とのつながり」を大切にする一貫した姿勢があった。20代の衝動的な旅から、30代を見据えた「人生の構築」へ。彼が歩んできた道のりと、その先に見据える景色を追った。
【原点】父の背中と、初めてのニューヨーク
Tさんのキャリア観の根底には、父親の存在がある。エンジニアとして韓国や台湾など世界を飛び回り、55歳を前に独立。自らの腕一本でビジネスを切り拓く父の姿は、幼心に「かっこいい」と映っていた。「いつか自分も独立して、ビジネスをしてみたい」。そして漠然と「海外」への憧れも抱いていた。
大学時代は体育会ラグビー部に所属し、365日練習に明け暮れる日々。海外への興味が具体的に動き出したのは、部活を引退した大学4年の1月だった。一人で訪れたニューヨーク。そこで目にしたのは、圧倒的な「見たことのない世界」だった。
「日本の当たり前が、ここでは当たり前じゃない」
狭い世界で生きてきた自分を知り、もっと広い世界を知りたいという好奇心が芽生えた瞬間だった。
【就活】戦略的な「大手志向」と、現実の壁
就職活動の時期、彼には3つの選択肢があった。公務員(教員)、一般企業、そしてプロのラグビー選手だ。「ラグビーはもういいかな」と感じていた彼は、人生の先輩たちのアドバイスに従い、手堅い戦略を立てる。「何かやるなら外資か、万人が知る大企業へ」。
選んだのは大手製薬メーカー。理由はシンプルで、「海外駐在のチャンスがあるから」だった。中途採用よりも新卒の方が入りやすく、レベルの高い経験ができると考えた彼は、100社近くエントリーし、自己分析を重ね、内定を勝ち取った。
「パッションだけでなく、大企業での経験を積んで海外駐在を目指そう」
そんな「海外」をちらつかせた野心と、「まずは大手で頑張ろう」という現実的な思考を持って、社会人生活をスタートさせた。
【新人時代】仙台での孤独と奮闘、そして運命の出会い
配属されたのは仙台支店。同期たちが東京や名古屋、福岡といった大都市に配属される中、地方配属は彼一人だった。
「なにくそ、やってやる」
持ち前の体育会系精神に火がついた。売上コンクールや販促イベントの総合評価などで「仙台からトップ3に入ってやる」と意気込み、ゴリゴリと働いた。一回り以上年の離れたベテランの先輩たちにも可愛がられ、仕事もプライベートも充実していた。
しかし、勤務地には知り合いが一人もいない。孤独を埋めるため、彼は毎日のように一人で飲み歩いた。LINEを交換してコネクションを作り、さまざまな人の人生話を聞くのが楽しみだった。
ある日、ラグビーワールドカップのパブリックビューイングで賑わうPUBで、一人のニュージーランド人と出会う。意気投合した彼と毎週のように飲みに行くようになり、入社1年目の年末年始には、彼に招かれてニュージーランドへの「下見」旅行へ行くことになった。
そこで触れた雄大な自然、ゆったりと流れる時間。「日本とは全然違う。俺はここが好きだ」。漠然とした「海外」への憧れが、「ニュージーランドに行きたい」という明確な目標に変わった瞬間だった。また、その友人が放った言葉が、Tさんの心を軽くした。
「もっと自由に生きたいなら、やりたいようにやればいいじゃん」
【転機】友の死が教えてくれたこと
一方で、会社員としての「海外駐在」への道は遠かった。現実には入社7年目や10年目まで待たなければならず、実績も必要だ。「パッションだけでは覆せない」年功序列の壁。親に相談しても「まずは3年働け」と諭される日々。
そんな迷いの中にいた入社2年目、決定的な出来事が起きる。身近な友人が交通事故で亡くなったのだ。
「人は、いつ死ぬかわからない」
その事実は衝撃だった。「あの時やっておけばよかった」という後悔だけは絶対にしたくない。3年を待つ必要なんてない。彼は会社を辞め、海外へ飛び出すことを決意した。
【挑戦と挫折】ニュージーランドから教壇、そしてITへ
念願のニュージーランドでのワーキングホリデー。しかし、その生活は予期せぬ形で幕を閉じる。コロナ禍の影響もあり、予定していたオーストラリアへの移動や、島巡りの旅も叶わず、8ヶ月での帰国を余儀なくされた。「やり残した」という不完全燃焼感だけが残った。
帰国後、すぐにまた海外へ行きたいと願ったが、現実は甘くない。
「ただ海外に行くだけじゃなく、どこでも生きていけるスキル、お金を作る力をつけなければ」
海外生活の中で、SNSやYouTubeで稼ぐ人々を見て感じていた焦りが、彼を突き動かした。
そんな時、かつての恩師から電話が入る。「先生が足りないから、やってくれないか?」。
教員免許を持っていた彼は、これを「準備期間」と捉えた。日中は中学の先生として働き、給料を得ながら、夜や空き時間はプログラミング学習に費やした。「Progate」で基礎を学び、「テックキャンプ」に通い、1年後にはITベンチャー企業への転職を果たした。
しかし、未経験から飛び込んだエンジニアの世界は過酷だった。開発中のサービスの修正や新規開設など、駆け出しの自分には荷が重い業務ばかり。「メンタル的にもかなり追い込まれた」と振り返る。それでも、社内の課題を解決する企画を提案したり、まだ世にないものをゼロから形にしたりする業務には、大きな喜びを感じた。
「ないものを形にするのが好きだ」
その感覚は、現在のYouTube発信や、情報がない中で自ら道を切り拓く姿勢にもつながっている。

【現在地】イギリスで見つけた「英語」以上の価値
IT企業で働きながらYMS(イギリスのワーキングホリデービザ)に応募したところ、見事に当選。
「これは運命だ、流れに身を任せよう」
と、会社を辞めて渡英した。
最初は語学学校に通い、日系ではなく現地のカフェやレストランで働き、英語漬けの環境に身を置いた。
しかし、生活が落ち着いてきた今、彼の中である心境の変化が起きている。
「英語力はもちろん上げたい。でも、それ以上に優先順位が高いものがある」
20代前半の頃のように、ただ英語力を高めたり、現地でバリバリ働くことだけがゴールではなくなっていた。
それよりも、自身の経験を通して、日本人に向けて「ワーホリという選択肢」や「海外での生き方」を伝え、誰かの背中を押すことに価値を感じ始めたのだ。
「自分が英語ペラペラになることよりも、これから来る人たちが困らないように情報を残したり、人と人をつなげたりする方が、自分には向いているかもしれない」


【未来への眼差し】30代の葛藤と、40代の夢
現在、Tさんは「ワーホリが終わった後」のキャリアも冷静に見据えている。
「20代は修正が効くが、30代からは積み上げが必要だ」と語る彼。
いつまでもフラフラと旅を続けたいわけではない。結婚も考えたいし、安定した資産やキャリアも築きたい。
そんな彼が描く40代、50代の夢がある。それは、日本に「拠点」となる店を持つことだ。
「僕に興味を持ってくれる人たちが、オフラインで集まれるレストランやカフェを作りたいんです。そこには、これから海外に行きたい若者が相談に来たり、かつて海外で挑戦した大人たちが集まったりする。そんな新しいつながりが生まれる場所を作りたい」
拠点は日本に置きつつも、年に数回はイギリスやオーストラリアへ行き、海外とのコネクションを持ち続ける。働く仲間とは、上下関係の厳しい組織ではなく、「休みが取れたらおいでよ」と言い合えるような、家族のようなチームを作りたい。かつて憧れた「海外駐在」や「エンジニア」という肩書きそのものではなく、その先にある「人とつながる生き方」こそが、彼の真の目的になっていた。

